フェミニズムの高まりから、誰もこぼれ落ちないように(2021/02/21追記あり)

Choose Life Projectの企画「#変わる男たち」とそれに対する反応に関して思うところがあるので、ちょっと長めの文章を書くことにしました。

まず、伝えたいことの要点を書き出します。とはいえここを読んだだけで理解したつもりになられても困るというか、きっと意図がちゃんと伝わらないままこの記事に対する反応が生まれ(場合によっては拡散し)、無用な対立と分断を生んでしまうかもしれません。それはまったくもって本意ではないので、最後まで読んでもらいたいです。

・女性に対する差別、不当な支配に反対すること。それらはなくすべきものだということ。当たり前ですが、賛同します。
・それゆえに、今回の「#変わる男たち」という企画に対する批判が、フェミニズムの高まりをとめてしまったり、アンチフェミニストの格好の餌として悪用されることは、絶対に避けたいです(もうすでに「これだからフェミさんは」的な言説、というよりただの悪意の塊が方々から出ています)。
・と同時に、今回の森発言や「#わきまえない女たち」がきっかけでフェミニズムの入口に立った人、これからその世界にもっと足を踏み入れていこうと思った人(性別問わず)の心意気を挫くことは、やはりあってはならないと思います。
・ゆえにこの記事の目的は、「#変わる男たち」企画を批判する人たちを批判することではなく、これからフェミニズムを学んでいこう、意識していこうと思っている、いわばビギナーへのケアを目的としています。
・なので、フェミニズムの先達のみなさんはガンガン批判してください(この記事と、この記事を書いている僕のことも含めて)。そして、いま自分の立ち位置がわからなくて困惑しているみなさん。何が正しいことなのかわからなくなってしまって、足がすくんでいるみなさん。大丈夫です。ゆっくり歩いていきましょう。
・女性差別はNO、不当な支配や理不尽な暴力はNO、排除と選別はNO。その旗印のもとに集ったものたちが分断しないように、この記事を書いています。

では、本文に入ります。まずはいちばん伝えたいこと。フェミニズムの入口に立った人へ向けて。

あなたは間違っていない

「#変わる男たち」の企画が批判を受けとめ、一旦仕切り直しとなりました。批判の主な理由は、フェミニズムを語る場に男しかいないのはどうなのか、というものです。非常に大雑把なまとめかたになってしまったので、以下のツイートを読んでください。

確かにその通りです。彼女たち(ほかにも同様のことを言っている人がたくさんいるので)の言っていること、批判は、正しいです。黒人差別問題を語るときにその場に白人しかいないことは不自然です。

これも同様です。フェミニズムに賛同する男性のひとりとして、グサッと刺されるような痛みを感じました。でもやはりこれも、受け止めるべき批判です。

ほかにもたくさん、そしてさまざまな角度からこの企画への批判が上がっています。そのひとつひとつは真っ当で、真摯で、本気でフェミニズムを考えて実践しているからこそ出てくるものです。だから私たちはそれを受け入れないといけません。

でも、これらはフェミニズムの入口に立ったあなたを、これからその奥に入っていこうとするあなたを、バッサリと断罪するものではありません。「#変わる男たち、いいね!」「俺も変わるぞ!」「私もこの企画楽しみ!」と少しでも思ったみなさんは、多くの批判を目にして驚いただろうし、同時に自分を責めてしまっていることだろうと思います。なぜならそんなみなさんは真っ当で、真摯で、本気でフェミニズムを考えよう、実践しようと思って入口に立った人だから。だからこそ、「自分が間違ったことをしてしまった」「批判されるべき事柄なのに喜んで受け入れてしまった」と感じ、いま、どうしていいかわからなくなっているかもしれません。

でも、もう一度言いますね、あなたは間違っていないです。この企画を批判している人たちが見ている景色は、見ることができている景色は、このまま真摯に道を進んでいけばあなたも目にすることができる景色です。「フェミニズムを語るときに男だけなのがおかしいこと」なのも「著名な男性たちが寄り集まってフェミニズムを宣言することの権威性」も、いずれ自然と理解できることです。今回は、それを急に突きつけられてしまっただけ。あなたはゲームのコントローラーを握ったばかりで、とりあえずこのゲームがRPGであるということくらいは理解しているビギナーで、そしたらいきなりすごい強い武器を渡されて「これがそいつの正しい使い方だよ」と教えてもらったようなものです。上手く使えなくて当然だし、そもそもそんな武器の存在自体を知らなくて当然です。だからそれを使いこなせないことや、そんな武器があることを知らなかったこと自体を、責められているわけではないです。あなたは、そして私たちは、これからこの世界(ゲームで言えば操作方法とか世界観とか)のことを知っていけばいいし、強い武器とその使い方は、熱中していれば自然に手に入り、理解できるものです。

だからいま、「森ふざけんな!」「いままで何も知らなかったけど知ったからには許せない!」「いままでは勇気が出なかったけど、これからはがんばるぞ!」と思って「#わきまえない女たち」のひとりとして手を上げ始めたあなたも、「いままで何が悪いのかわかってなかったけどやっとわかった!」「女性が声を上げているだけじゃダメなんだってこと、やっとわかった!」と思って「#変わる男たち」のひとりとして手を上げ始めたあなたも、どうか、自分を否定しないでほしい。あなたは決して間違っていない。いまはまだ「深さ」を知らないだけ。そしてそこは、心配しなくてもいつか到達できる場所です。1歩ずつ行きましょう。あなたのその「差別/支配/暴力に抵抗しよう」という心意気は、誰にも否定できない正しいものだから。

次に、すでにフェミニズムの先達となっているみなさんへ。

置いてきぼりにしたくない

ここからは、程度の差はあれすでにフェミニズムの世界に足を踏み入れ、さまざまなことを考えたり実践してきている人たちへ向けての文章です。その中には僕も含まれていますが、今回はむしろ「思いっきり批判されるため」に書いている節があるので、言い訳してんじゃねーよクソが、とか、お前こそわかったふりしてる偽善じゃねーかクズが、とか、容赦なく言ってもらって構いませんし、あるいは、僕のためを思っての「批判」も可能な限りいただけたらと思います。念のため書いておくと、前者と後者の間に貴賎も優劣もありません。少なくとも僕の中では。僕が男(と社会や人々から認識される存在)である以上、今回の件に関して何かしらの意見を発信することで生じた意見は、どのようなものであっても受け入れ咀嚼し自分のものとする必要/義務があるからです。

では本題に。

前述した批判の数々(僕が言及していないものも含めて)はおそらく、何度でも書きますが、やはりビギナーは理解できなくて/知らなくて当然の「フェミニズムの常識」です。僕自身もこの企画を目にしたとき、シンプルに「いいね、観よう」と思った人間です。本屋としてフェミニズム関連のフェアをやったり、発言したり、もちろん個人としてもそれをやってきたつもりだし、「この本、これからの社会を考えるってテーマなのに女性いないやん、仕入れるのやめよう」とか一丁前にやってきたくせに、です。だから、やっぱり何度でも言いますけど、てめーのこと棚にあげて何言ってんだカス、くらいのことはギャンギャン言ってもらって構いません。が、裏を返せば、それなりにフェミニズムを意識してきた人間であっても、すぐには気づけないレベルの「常識」だったのかもしれません(は?言い訳すんなよ、ですが)。

そう考えると、今回の「#考える男たち」企画を批判することは、というより、正確には、「一切のケアなしに」批判をすることは、「正しいことをしようと思って勇気を出した人」の心を折る可能性がある、と僕は思っています。そしてそれは絶対に避けなくちゃいけないことですし、それがある種の分断や格差を生んでしまい、それをアンチフェミ的な悪意の塊の人間に悪用されるのは本当に最悪です。だからいま、僕はこれを書いています。みなさんの批判が間違っているなどとは1ミリたりとも思っていません。むしろガンガンやってくれ、いや、僕もガンガンします(内省しながら)、という思いです。でも、そうすることでこぼれ落ちてしまうもの、置いてきぼりにされる存在のことも、忘れてはいけないと思います。

正しさは、追求すればするほど「狭く」なっていきます。それは言い換えれば「精確」「緻密」になっていくということで、もちろんその過程は正しいし、絶対に必要なことです。でも、その狭さや精確さ、緻密さは、ビギナーにとっては越えられない壁になってしまうのも確かです。私たちが「正しさ」を追究すればするほど、それは「圧」や「排除」を感じさせることにもなってしまう、それもまた事実です。

いわゆる古参オタが新参者に対して「それはニワカ」「浅い」などと言ってしまうことでその事柄のファンが増えない、という構造と同じかもしれません。たとえその指摘が「その認識は(こうこうこうでこうだから)甘いですよ」という丁寧かつ正しい指摘だったとしても、恐る恐るで入ってきた新参者にとっては刃にしか思えないかもしれません。

私たちが知っている「正しさ」や「常識」は、ある程度のレベルにまで知識や経験が到達していないと理解できない「狭い/精確な/緻密な」ものなのかもしれません、いや、そうなのです。もちろん物事を追究するうえでは、それらは必要なことです。「正しさ」は決して大雑把なものではない。私たちが追究しきれないレベルまで精確で緻密な区分けが必要なものですし、ゆえに常に「(この場合における)正しさとは何か」と自らに問い続ける必要があります。でも、その正しさ=正解=ゴールは、初心者にはなかなか見えません。玄人ですら見えないときもあるのだから、「あそこにあるゴールに向かってボールを蹴るんだよ、は?見えない?なんでだよ、あそこにあるじゃねーか、バカなの?」みたいな発言や態度は絶対にしてはならないのです。

もちろん多くのフェミニストはそんな発言・態度はしていません。少なくとも僕は見ていません。でも、初心者が「そう感じてしまった」のなら、事実としては一緒です。おそらく逃げてしまうでしょう。フェミニズムは怖いとか、バカな自分は調子に乗らないほうが良かったんだとか、とにかくいろいろと傷を負って去っていくと思います。大事なことなのでもう一度言いますね。だからといって、この「#変わる男たち」企画への批判をやめろということではないです。むしろギャンギャンやってください。それがあなたたち先達の、「より精確で緻密な正しさ」を知っている者の仕事です。それを批判したいわけじゃない。ただ、それ「だけ」ではこぼれ落ちるものがあって、それをこぼれ落ちたままにしてきたからいまがあるのだと思っているのです。

これはフェミニズムに限った話ではありません。政治や社会を意識しろ、関心を持て、発言をしろ。お前らが無関心なせいでこんな酷い状況になっているんだ。私たちにそんなつもりはなくても、多くの人は「そう言われている」気がしています。じゃあ頑張るよ、と勇気を出して足を踏み入れても、最初はとんちんかんなことを言ったりやったりしてしまう。そんなときに目に入るのが、「自分には理解できない正しさ(=初心者には見えない大きさのゴールに向かって蹴れという無茶な指示)」の主張ばかりだったら、その人は自信を失って閉じこもってしまうかもしれない。もしかしたら、反動が過ぎてネトウヨや差別主義者になってしまうかもしれない。

間違えて怒られるくらいなら、何もしないほうがいい。その積み重ねが、いまの日本を生み出し、維持しています。いや、怒ってないよ、ぜんぜん。と、こちらが思っても、そう感じてしまっていたら「そう」なのです。それはお前の気持ちが弱いからだろ?という言説にはNOと言います。強い人だけが生き残れる社会は、少なくとも僕が望む社会ではありません。

ということで、僕はこぼれ落ちるものを拾う側に回ります。ゆえにこれを書きました。そして何度でも言いますが、これは単純に役割の違いでしかなく、貴賎も優劣も一切ないです。昨日までの僕には、先達のみなさんが指摘する「正しさ」が見えていなかった。今日の僕にも「見えてない正しさ」がある。明日の僕にも。それはきっと先達のみなさんも同じでしょう。僕は、昨日だったり10年前だったりの自分と同じ場所にいる人のほうに足を踏み出します。だから先を行くみなさんはどんどん奥へ奥へ進んでください。そして「お前!見えてねーぞ!」と指摘してください。僕はそれを真摯に受け止めて、僕の後ろにいる人たちに、「見える形」にして渡そうと思います。

Choose Life Projectのナカノヒトたち、全世界の反差別を求める人たち、これからも同じ方向を向いて歩いていきましょう。本気でやっているからこそ、内部で対立も生まれる。それを乗り越えた先にある景色、みんなで見ましょう。誰ひとりとして取りこぼさずに。(以下、追記あります)

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これを書いた自分はいろいろなものを履き違えているな。というのが、この記事に言及してくれた多くのかたの意見や批判を自分なりに吸収したあとに再読して、いちばんはじめに思ったことです。よって、まず何よりも先に謝罪します。申し訳ありませんでした。僕の中にどのような意図や思いがあったにせよ、これは明らかに「(悪い意味での)わきまえない男」です(「わきまえない男」に良い意味があるのかどうかもわかりませんが)。フェミニズムの本質がどのようなものなのか、どういった歴史=女性たちひとりひとりの人生の積み重ねによって誕生したものなのか、そして今を生きる女性たちがどのような闘い(であり、闘わざるを得ない状況)にあるか、といったことへの僕自身の無理解が原因です。申し訳ありません。

以下、Twitter上でいただいたご意見や、個人的なやり取りの中でいただいた教えをもとにして、何がどうよくなかったのか、自分なりに考えたものです。

僕は決して「当事者」ではない、ということ

最も根本的なところから間違えていました。僕は女性差別やあらゆる理不尽な暴力・支配に対してNOを突きつけたいと思っていて、そういった問題に関しては常に、たとえ自分が直接的にその差別や暴力に加担していなくても、「(差別に反対する)当事者」として関わっていくべきだ、と思っていましたし、今もそう思っています。ですが、厳密には「当事者」にはいくつかの種類/立場があるということを理解していませんでした。ひとつは、差別や暴力を受ける「当事者」で、フェミニズムに関していえばそれは「女性」です。そしてもうひとつが、そういった差別や暴力などに反対する人であるという意味においての「当事者」で、僕はあくまでこちらの当事者でしかないのです。いや、当事者ではなく、「(女性差別に反対する)当事者であろうとする非当事者(女性差別を受けていない、という意味においての)」のほうが正確です。なぜならこの中には被差別当事者である女性も当然のように含まれるからです。だから僕が男性である以上、フェミニズムに関わるときには常にその枠=非当事者から出ることはできないわけです。

・差別を受けている「当事者」=女性
・差別を受けているがゆえに差別に反対する/せざるを得ない「当事者」=女性
(ここまでが「当事者」であり、大まかに言えば「すべての女性」です)

・差別を受けているわけではないが差別に反対する意思のある者=非当事者=フェミニスト男性
(もちろん差別を解消する義務があるという点では「すべての男性=当事者」です)

というのが、フェミニズム/女性差別における当事者/非当事者の区分けになるのではないか、と現時点では考えています(まだまだ不正確なところがあるはずですが)。ですが、上記の記事を書いた段階では僕にその区別はついていませんでした。いわば、「アライ=支援者」としての自覚がまったくなかったということです。どれほど「意思があっても」構造的に(差別を受ける側ではない、という意味においては)非当事者である以上、僕はアライでしかないのです。アライの心得を以下に貼りますので、リンク先に飛んで一度読んでから、もう一度こちらに戻ってきていただけると幸いです。

https://togetter.com/li/634912

ようするに僕のおこないは、非当事者でしかないにもかかわらず当事者の頭上を飛び越えて、こうしたほうがいいこうすべきだ、というのを語っていたということで、この心得の中で言うと「正義の味方になったという自己満足」「自分が主役だと勘違いする」といった部分に当てはまるかと思います。完全なる「アライもどき」です。たとえ僕にそのつもりがなくても。というより、つもりがないからこそ最悪です。いただいた批判の中に「マンスプレイニング」「トーンポリシング」といった指摘がありましたが、それもここで理解ができました。僕にそのつもり=意図がなくても、この「決して当事者ではない=どこまでいってもアライである」ということへの自覚がなければ、どのような発言・態度もマンスプレイニングやトーンポリシングになりうるのです。


とにかく僕はアライなのです。どれだけ「差別をなくしたい」という思いが強くても、主役になってはいけない。さらに言えば、当事者の「戦いかた」を批評することも、当事者を差し置いて自分の意見を主張することも、してはならないわけです。それはどちらも、当事者の声を奪う結果に繋がるからです。つまり、当事者である女性たち(まだフェミニズムを知らない人も含む)が100%の力で抵抗できるようにサポートするのが、僕の役割だということです。もちろんここでいうサポートには、僕自身が女性差別をおこなう人間(抵抗の声を上げた女性に向けてクソリプを飛ばすことなども含む)に対して反対の意や怒りを表明すること、意思はあれどもさまざまな理由があって抵抗できないでいる人たちの「声」に耳を傾けること、なども含まれています。完全に後方支援に回る=「声をあげる/怒るのは女性だけでいい」というような意味ではなく、ともに前線で戦いながらも決して邪魔はしないように心がける、ということです。

なぜ自分のことを「当事者」だと思っていたのか

端的に言うと、「政治とフェミニズム(を含むあらゆる差別問題)をごっちゃにしていた」というのが原因でした。政治はその影響力が及ぶ範囲の中にいる人すべてが「当事者」です。その時点で日本にいるすべての人間が、その時点の日本の政治の影響を受けるわけですから、性別や国籍や年齢を問わず、みなが当事者だと思います。

ですが、女性差別の影響を受けるのはあくまで女性です(女性が差別されることによって様々な影響が男性や社会全体にも出ることは確かですが、それはあくまでも派生的なものでしかありません)。

・日本にいる→日本の政治の影響を受ける=「政治」の当事者
・女性である→女性差別の影響を受ける=「女性差別」の当事者
・僕は日本にはいるが女性ではない=「政治」の当事者ではあっても「女性差別」の当事者ではない

あらためて文字にするとあまりにもシンプルかつ当たり前なことすぎるのですが、この違いは見た目以上に大きいものですし、その部分への無理解が引き起こす悪影響も同様に大きいものなのだと思います。

僕は政治の問題を考えたり発信したりするときと同じ意識で、今回の記事を書いてしまっていました(森喜朗という政治家の発言が発端になった問題だから政治とごっちゃになった、ということではないです。もっと本質的なところで同じものとして捉えてしまっていました)。出過ぎた真似です。ゆえに、そこ=記事に何が書かれていようと、女性の声を抑圧することにつながってしまいます。やはり、僕にできるのはあくまでも「アライ」としての「支援」です。

男性はいかなる場合においても「女性差別の受益者」である、ということ

もうひとつ、僕が気づいていなかったことがあります。それは、たとえどれほど女性差別のことを解決しよう(=フェミニストであろう)と意識していたとしても、男性である限り「非当事者(=アライ)」でしかない、ということと同様の構造で、男性はいかなる場合においても「女性差別の受益者」である、ということです。今の社会が男性優位の社会である以上、やはりその枠から出ることはできません。また、この「差別の受益者であるということ」が「男にとって」「理解しにくい(=目に見えにくい)」ものであること、これこそが男性優位の社会であるということの証左だということ。


男からすれば(そしてフェミニストであろうとする人ほど)ショックに感じると思いますが、今の社会においては「男としてなんの気なしに生きていること」だけで女性差別の加害者になりうる、ということです。

女性差別は構造的な差別である。これはよく言われることですし、僕も知識(というより文字情報)としては知っていましたが、その「実感」がないまま先の記事を書いていました。ゆえに記事の内容そのものが女性の様々な機会を奪うことにもなる、という自覚もありませんでした。この記事を書いたことに対する批判の声が主に女性からのものだったことも、その証なのかもしれません。また、この記事へのクソリプがまったくなかったことも、男性優位の社会であることを示していると思いました。仮にこれ(に限らず「フェミニズム」をテーマにしたもの)を書いたのが女性だったら、内容そのものなんて関係なしにクソリプやらなんやらが殺到していたはずです。女は黙ってろ。調子に乗るな。そういった「まったく根拠も正当性もない罵声」によって、意見を言うこと自体を封じられることがない。それだけで男性は、すでに「勝ち」だということ(どんなクソミソな意見でも世に放たれればある程度の賛同は得られてしまうし、その賛同がまた根拠となって正当性を得ていきます。その積み重ねが社会であり、世論であり、常識です。そしてそれらを「無意識に」形作ってきてしまったのが、男性であるということ)。男性であるというだけで、あるいは性別とは関係なく何かしらの理由で発言の機会そのものを奪われるということは、ほとんどの男性が経験してないことだと思います。いや、あるじゃん。そう思うかもしれません。でもそれは、明確な意思や対象を伴った「拒否」「剥奪」だったと思います。ゆえに男性である僕たちは「意見を封じられた」と思ったし、封じた側(男女問わず)もその意識があったはずです。でも女性はそうじゃない。意見を封じた側=男性にその意識がないまま、女性は発言機会を奪われてきました(ゆえに自分が機会を奪われていたことに気づかなかった女性もいたわけです)。男性は女性差別の構造的受益者である、というのはこのような一面もあるのだと思います。

そう考えると、男性である僕ができることはやはり「よきアライである」ということになります。

アライとしてできること

僕がアライとして、そして本屋としてできることのひとつは、やはり本の紹介だったのだと思います。これは複数人のかたにも指摘されたことでもあります。また、「フェミニズムの間口を広げること」が目的なのであれば、上記のような記事を書くことではなくて、フェミニズム初心者のための噛み砕いた説明をしたり、勉強会を開くことなのではないか、というアドバイスもいただきました(この追記自体がそうなっているといいのですが)。
ということで最後に、本の紹介をして終わりにしたいと思います。

イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』(タバブックス)
http://tababooks.com/books/watashitachi

女性はもちろんですが、むしろ男性にこそ必ず読んでもらいたい本です。そしてできれば、2回(以上)読んでもらいたいです。1度目は「女性差別の存在を認識するため」に、2度目からは「アライとして何ができるのかを考えるため」に。僕自身が今回実際に、後者を意識しながら再読しました。わかったつもりになっていた、ということがたくさん出てきました。定期的に読み返して、「今の自分」を点検する必要があると思います。

グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』(フィルムアート社)
http://filmart.co.jp/books/life/descent-of-man/

やはり男性必読です。自分の中にある「男らしさ=規律」を自覚することで、それらが苦しめていたもの(自分自身も含む)の存在に気づけるかと。あと「真実はあなたを自由にする。でも最初はムカつく。」という序文(?)に救われるかもしれません。最後に掲示される8つの「男性の権利」も、フェミニスト(アライ)であろうともがく私たちの支えになるかと。

と、ここまで「わかったような顔」をして書いてきましたが、もちろんまだまだ途上です。マジョリティ(僕の場合は男性であり、異性愛者であり、ほかにも意識できてないものがあるはず)としての特権を持って生きている、生きていられるということ。このことへの自覚は「すぐに/簡単に」失われるものだと思います。そして途上というより、永遠に「未完」です。まずは最低限、アライとして生きること=マイノリティの口を塞ぐようなことはしないこと、常に自分は加害者になりうる=差別の構造的受益者であるという意識を持つこと、ここからスタートしようと思います。

厳しい指摘でもあり、同時に救われるものでもあると感じました
なので、僕は「毎日ハードル、毎日ずっこける(立ち上がる)」を今後の行動指針、標語とします。

これからもあらゆる差別や暴力、支配、腐敗に対して抵抗していきます。そこは変わりません。今後ともよろしくお願いします。

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